親戚付き合いはお節介過ぎるくらいがちょうどいい

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過疎化地域のコミュニティは閉鎖的なので、衰退していくのは当然のこと

筆者が勤める火葬場周辺の地域はかなりの高齢化率を誇り、年々過疎化が深刻化しています。それはそうですよね。地方には仕事がありません。あるにはあるのですが、農業や漁業などの伝統色の濃い職業が大多数を占めており、これらの仕事は代々家業で行ってきた地元民の影響力が強く、まったくの素人が参入出来にくい職種となっています。地域おこし協力隊とか、新規就農者とか希望する方がいらっしゃるようですが、まったくオススメしません。よその土地からやってきた人はこれら伝統色の濃いコミュニティに溶け込むことは、よほどのコミュ力がない限りは不可能です。都会で人間関係に悩んだ末に地方で就農するとか絶対に無理です。地方では、地域の伝統と文化に溶け込むコミュ力が絶対に必要です。それがなければ生きていくことは不可能です。仕事だけをやっていればいい都会のほうが全然気楽に生きていけます。田舎の人は優しいとか、完全に嘘ですよ。なんなんですか?その幻想?田舎の人は地域の伝統と掟に縛られた生活をずっと続けてきました。そして、それを破る人間を徹底的に排除しようとします。そんな風習が嫌で都会に逃げる子供が大勢いるのが現実なのに、都会から田舎に来たがる人って、ちょっと理解できません。本当に田舎に理想を持ち込むのはやめた方がいいです。理想を抱いて就農しても、待っているのは地域の人たちに気を使い続けるだけの毎日です。

理想と現実は違うぜ?田舎の濃密な人間関係は結構ストレスなのさ!

ひとり残された親が亡くなって、市役所から死亡の知らせが届くという現実

地方で生きている人がみんなコミュ力が高いわけではありません。代々農家をやってきた家でもない限り、奥さんを亡くされた男性は結構孤独になる割合が高いです。高齢の男親だけの家には子供もあまり頻繁には帰ってこないものでしょう?また、高齢の男性は頑固で気難しい人が多いので、そういう人は周りが近寄ってきませんから益々孤独になります。火葬場にもそんな状況で孤独死された方が月に3件くらいこられます。孤独死ですから事前に入院することもないので病院からの連絡も入りません。亡くなった事実を市役所から知らされるだけです。親の死に目にあうことはもちろん、火葬場で対面したときには死後数日経過した遺体がそこにあるだけです。

孤独死された方が火葬場に運ばれてくるたびに、やるせない気持ちになります。

孤独死されるということは、正直、誰からも見放されているということです。もちろん、様々な家庭の事情があるでしょうが、孤独死された方の火葬には当然のように参列者は少ないです。5人もいればいいほうで、0人のときもめずらしくありません。まったくの孤独です。かと思えば10人くらい遺族が集まるときもあります。それだけ遺族がいるのなら何故孤独死なんかになるのか不思議に思われることでしょう。これが筆者がやるせない気持ちになる原因なのです。たとえ遺族さんが10人も集まったとしても、孤独死された方のことを悲しむ人はあまりいません。確かに、年齢が90近くともなれば大往生ですし、悲しむ必要はないのかもしれません。でもですよ、90近い親を放っておいて都会で生活して、火葬の時に戻ってきて、少しも悲しむ素振りの見えない遺族さんたちもいるわけです。挙句の果てには骨はいりませんと言われる方もいらっしゃいますので…そりゃ事情はあるでしょうけれど…なんともやるせない気持ちになるわけです。

遺族さんが冷たいのではない。孤独になる人にはやはり原因がある。

筆者がやるせない気持ちになるのは一概に遺族さんが冷たいとか薄情とか言っているわけではないのです。孤独死になるに至った原因がやるせないのです。先にも記述しましたが、田舎の人は頑固者が多いです。都会の人が経験したことがないくらいの頑固者がほんとに多いです。そういう人に理屈とか理論とかはまったく通じません。感情がすべてなのです。その日、その瞬間に機嫌がいいか悪いかですべてが決定するのです。しかも、瞬間湯沸かし器のような人がめちゃくちゃ多いです。ほんの些細なことで、感情が一変し怒鳴り散らすような人の多いこと…。そんな人に出会ったことありますか?まず近寄りたくないでしょう?田舎にはそんな人がめちゃくちゃ多いです。それは農業や漁猟などの仕事に従事する人が多く、組織という複雑な人間関係で成り立っている会社に所属している人が少ない為でしょう。それ故に対人能力を磨く必要性に迫られず、わがままな子供のような性格のまま老人になる人が多いと考えられます。ほんとうに3歳児のような癇癪持ちの老人、多いですよ。こういう人は孤独になって当然といえば当然ですよね。

地域コミュニティを守るということ、伝統を守ることのメリット

何世代もその土地で家を受け継いできた方々の葬儀はやはり壮大なものになります。田舎には築100年以上の家が多数存在しています。それらの家は比較的大きく、親子3世代で暮らしていくのに充分な敷地面積がある為、母屋とは別に子供の家を敷地内に増設してある家も珍しくありません。また代々農家を続けてきたような家も多く、不況の最中ながら家業で充分な収入を得ることができているのでしょう。そういったお家は土地から離れる必要性が生じませんので、これからもその土地で暮らしていくためには地域との繋がりも必然的に密にせざるを得ません。それはつまり家族や親戚、そして地域の人たちに尽くすことを意味します。地域の寄り合いはもちろん、自治会や行事、祭りや伝統行事などに積極的に参加して貢献するということです。先ほど述べたことに、田舎は地域コミュニティが密なのでよそ者が参入しにくいと書きましたが、そこにはやはり地域で代々続いてきたこれらの風習が薄れてしまうことの危機意識が強く影響しているものと思われます。これらの風習が薄れてしまえば、それはすなわち地域コミュニティの崩壊を意味するからです。よそ者を拒む土壌が生まれてしままうのは、地域コミュニティに所属していれば、代々続いてきた家と世間体を守れるという安心感を危機に晒してしまうのではないかという恐怖心からくる防衛本能のようなものなでしょう。

伝統を守るだけではない。多くの人から惜しまれる人の共通点とは?

地域で代々お家を守ってきた人が賞賛される傾向にあるのは確かですが、そのような土壌がなくとも多くの人に惜しまれながら葬儀を終えられる方も当然いらっしゃいます。医者や議員などはもちろんのこととして、そのような名誉職に就かずとも参列者の方々に本当に惜しまれながら旅立たれる方はどんな方なのでしょうか?筆者が思いますに、それは生前に『どれだけ人に与えることができたか』どうかで決まるような気がしています。筆者が好きな漫画マインドアサシン(集英社/かずはじめ著)にこんなセリフがあります。『人はその人が亡くなったことが悲しくてなくんじゃない。その人を失った自分が可哀そうでなくんだよ』人間は誰でも自分勝手な生き物です。人の為に泣くことの出来る人間なんてひとりもいません。泣いたつもりになっているだけで、本当はその人を失ってしまった自分が、もうその人から何も与えて貰えなくなってしまったことが可哀そうで泣いているのだと…。結局、人は損得勘定で行動しているのです。莫大な遺産を残した人の葬儀が閑散としたものであった試しなど一度だってありません。これだけで考えると、結局金かと思われるかもしれませんが、そうとばかりも言いきれません。お金持ちのロクでもない人間だっていますからね。そんな人は誰からも惜しまれたりはしないでしょう。人から惜しまれるのはやはり、その人が生前なにを残したかどうかに掛かっているのです。お金だけの話じゃありませんよ。その人が伝えれること、関わった仕事、その人の生き様など、その人にできることを精一杯にやった人だけが惜しまれるのです。日々、なにもせず歳だからとテレビばかり眺めて過ごしている様な人は惜しまれません。懸命に働いて、子供を大学に行かせて、正月には必ず家に親戚一同を招いたり、親戚回りを欠かさなかったり、お歳暮やお中元を欠かさなかったり、そんな親族の付き合いを大切にしてきた人が惜しまれるのです。親戚関係を疎かにしたり、軽く考えているような人はやはり疎かに扱われてしまうものです。人付き合いはちょっと煩わしいものだったりもしますが、お節介すぎるくらいが逆に調度よいのだと筆者は考えています。あなたも気を使い過ぎずに親戚にお中元を贈ってみてください。必ずいい結果を齎すものですよ。

 

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